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若いうちは、複雑な老年を生きる才覚がありません。しかし多くの人は、年をとって体の自由が利かなくなったり、美しい容貌の人が醜くなったり、社会的地位を失ったりしていく中で、その人なりに成長します。

 つまり少年期、青年期は体の発育、壮年と老年は精神の完成期であり、とりわけ老年期の比重は大変重いものでしょう。

死を前にした時だけ、私達は、この世で、なにがほんとうに必要かを知る。・・もし明日の朝に世界中の人類が死滅する、ということになった時には、誰もがいっせいに、今まで必要と信じていたものの99%が、もはや不必要になることを知るのである。
お金、地位、名誉、そしてあらゆる品物。すべて人間の最後の日には、何の意味も持たなくなる。

 最後の日にもあった方がいいのは「最後の晩餐用」の食べなれた慎ましい食事と、心を優しく感謝に満ちたものにしてくれるのに効果があると思われる、好きなお酒とかコーヒー、或いは花や音楽くらいなものだろう。それ以外の存在はすべていらなくなる。

 その最後の瞬間に、私達の誰もにとって必要なものは、愛だけなのである。
愛されたという記憶と、愛したという実感との両方が必要だ。
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人間は老人であろうと誰であろうと、「人間をやっている間」は働くべきだ。
理由は簡単で、与えてこそ一人前だからなのである。

昔と同じような地位がないのはもちろん、「労賃」も安くて当然だ。いや、労働力が衰えた以上、報酬も安くなる方が社会的関係は端正だ。しかし何歳になろうと、働いて社会に与える立場にいることは、精神の尊厳を示す条件だからだ。

荒っぽい言い方ですが、幸福を感じる能力は、不幸の中でしか養われない。
運命や絶望をしっかりと見据えないと希望というものの本質も輝きもわからないのだろうと思います。

不幸にもいろいろありますが、自分の不幸を特別なものだと思わないようにすることが肝心です。

みんな、自分の不幸がこの上なく大きいものだと思うわけですね。私に言わせると、それは悪い意味で女性的特質だと思いますが、不幸というのは誰にでもあって、しかも比べられないものなんです。

闇がなければ、光がわからない。人生も、それと同じかもしれません。
幸福というものは、なかなか実体がわからないけれど、不幸がわかると、幸福がわかるでしょう。だから不幸というのも、決して悪いものではないんですね。




人間は時には利巧なこともするが、バカなこともする。利巧なことができたら運が良かったと思って喜び、バカなことをしてしまったら布団をかぶって寝ることだ。そのどちらも大して大きな差はない。私達のやることは、すべてその程度のものである。

絆とは、他者のためにいささかの自己犠牲を払うことである

 自分も他人のために、いささかの損をするか傷つくのを覚悟しなければ、人を助けるなどということはできない。一切の損を認めない絆などありはしないのだ。

 そもそも絆の基本は、親とも同居することだと私は思っています。・・親に力がなくなってきたら、一緒に住むのが自然なんです。それが一番人情的な絆ですね。

 要するに、自分にとって頼りがいのある人との関係を持つことが絆ではありません。
むしろ、苦しむ相手を励まし、労働によって相手を助け、金銭的な援助さえもするのが絆だと思います。

私は「絆とは相手のために傷つき血を流し、時には死ぬことだ」と教えられました。




アラブの格言の中には、日本人なら、落語や漫才の中でやっと大声で言えるようなことがたくさん納められていて普通に語られている。
「人生はいかがわしい見せ物だ」
「たくさん持ち過ぎているのは、足りないのと同じだ」
「賢い人は見たことを話し、愚か者は聞いたことを話す」
「行動を起こす前に、退路を考えろ」
「賢い人の推測は、ばかの保証より真実」
「正義はよいものだ。しかし誰も家庭でそれを望まない」

大切なのは、現実にない平等にとらわれることではなく、笑って不平等に馴れ、不平等の社会のなかで自分の世界を作ること。そして、健康な人は体の弱い人を助ける。お金のある人はない人に少し分ける。平等な社会を目指して平等に向かっていけばいい。そのためには「喜捨の精神」を持つことが大事だと思います。

人間は得することを望みますが、人のために少々損の出来る人になりたいですね。

一番大きな損は人のために命を捨てることで、それはなかなかできませんが、それこそが本当に偉い人です。
しかしそれ以前に小さな損ができる人間になれるよう自分と子供をしつけなくちゃ。


私の危険な本音 曽野綾子



職業は好きでなければならない。これが唯一、最大、第一にして最後の条件である。学問も職業も、なにが好きかわからないという人は、それだけで自分には才能がない、と思いあきらめるべきである。

自分の才能を見つける方法は簡単です。「自分が好きなこと」をやればいい。そうでなければ長続きしません。どんな職業でも、プロと呼ばれるようになるためには継続が必要ですから。

 私は、日本はこれまでのような経済大国一辺倒から、技術国家、職人国家を目指すべきだと思っています。

 日本人は本来、すばらしい素質を持っています。勤勉で、誠実で、難しい問題をどうにかして解決していこうとする力を誰もが持っているんです。・・どんな分野であっても、長い年月そのことに没頭して、寝ても覚めてもそのことを考えているという境地を経ないと、その道のプロにはなれません。・・・

好きなものが見つからない、という子供がいるそうですが、それは本人の責任だと思いますから、私はまったく同情したことがないんです。自分の好きな物をみつけるなんて、簡単ではありませんか。やっていて楽しいことの一つや二つはあって当然でしょう。

私の危険な本音 曽野綾子



・・教育によって人間はどんなにも変わり得る、という見解をとろうとしている。しかし私にはそれは信じられない。知能の低い少年は、一生知能の低いままだし、はなやかなことが好きな人は、どんな立場になっても、その子の身を捨て去ることはない。

教育によって変わったと見える場合も、それは他人の教育によって変わったのだと私には思えない。それはその当人の自己教育によって変わったのである。そしてその当人の自己教育に、他人が少し手を貸しただけだと思う。

今の日本の教育に欠けているのは、相手の立場に立ってものを考えるという訓練を子供にしていないことだろう。対立している場合の解決法は、譲り合うことだ。それをしないと、とことん闘い、傷つけ、最後には殺すことになる。

よく、小言ばかり言っている父母を見ることがある。叱らなきゃだめだ、というが、私から言うと、それは順序が逆である。

親はまず、親ばかの名を借りて、子供に惚れなければいけないと思う。惚れて、ほめておいてから、「こういう点だけなおせば、もっと人間に厚みがつくよ」と言えば、子供もすんなりと聞くのではないかと思う。

教育というものは、一人の個人を、自立させることである。だから、子供が一人で暮らしたがるということは、とりもなおさず、教育の成功を意味している。





僕はこのごろ自分からよくなろうという気力のない人間は死ぬ他はないと思うようになったな。それが適者生存の原理でしょう。

今の地球上の論理は弱者を甘やかしすぎてますからね。
しかし僕のように思っている人が仮にいとしても決してこのことは口にしない。そんなこと言ったら、こてんぱんにやっつけられますからね。僕はあなたには言えても決して日本じゃこういうことは言わないんだ。

・・ですから、貧乏だからもうおしまいだとか、両親の仲が悪いからぐれた、なんていう子がいたら、私は出て行ってぶん殴ってやりたいです。はっきりいって、家族が歪んでいたら将来自分が作るはずの家庭はあたたかい円満なものにしようと思うはずです。

 海外の貧しい家庭の子供は、10歳にもならないうちから本当に働いていますから。・・別に「日本の子供も働きなさい」と言っているわけじゃないのです。

ただそういうふうに働いている子供は、ぐれたりしません。
親や兄弟を自分が生かしてやっているという自負がありますから。

 人に「与える」という光栄を与えられずに育った子供が、おかしくなるのです。幼いころから与えてもらうだけで、人に与えるということをさせてもらわなかった結果なのです。




・・そもそも事故現場に、軽症から死に近い人までさまざまな段階の負傷者がいるような場合、救えそうな人から救出して、希望のない人は後回しにする、ということは、致し方のないことなのである。
しかし日本人の中には、あくまで平等に全員を救え、そこに優劣をつけるのは差別というものだ、と主張して平気な空気が常にあったと私は思う。

マスコミも何かにつけて「知る権利」などというものを絶対で最大の正義のように振り回すのはどうなんでしょうね。現実社会には、個人の権利を守ることが最高ではない、という価値判断もあるんですね。
強力な肉食獣が多いアフリカの自然の中で、か弱いカモシカが生きるために群れの力を借りなければならない。

 それと同じで、人間も又集団で自衛しないと個人の安全や生命さえ全うできないことがある、個人の権利をいささか犠牲にしてでも集団の利益を考えなければ、生命の安全はもちろん、日常生活の便宜さえも確保できないことが多い、ということを認識すべきです。


人生の収穫 より
 家庭では自分の家で料理をするべきだ。外でおかずを買うことは恥であると教えなければならない。
料理は教育、芸術、社会学の一部である。工夫と馴れができ、家族が皆で手伝えば素早くできる。

 子供たちに、暮らしていけるのにぜいたくを求めて売春まがいの行為をするなら、人間をやめろという方がいい。
電車の中で化粧をし、ケータイを見詰めるような生き方は、世界中の国で侮蔑される行為だと誰も教えないのだろう。
・・・・・・
以前、わが子の入学式に出るために、自分が教える学校の入学式を欠席した教師がいましたね。・・
私は、自らの仕事に全責任を負いたくなかったら、そこに就職すべきでない、という意見なんです。

 小説家もそう。プロの書き手になったら、たとえ家族が病気でも締め切りに合わせて書くのが当たり前です。
そんなことは馬鹿らしい、嫌だという人は原稿料をもらうプロの作家にならなければいいんですから。

アマチュアなら、「私、今日は気が向かないから書きたくないの」とか「子供が熱をだしたから」で済むわけです。
 しかし職業としてお金をもらう、ことに公務や人命にかかわる仕事に就く人間であれば、親の死に眼に会えないことぐらい、覚悟しておかなければいけません。





 

 私は就任すると、すぐダイレクトメールを廃止した。私の家にもよく送られてくるが、正直なところ種類が多すぎてとても全部は読めない。私よりもっと多くもらう人はほとんど読まずに捨てているだろう。この廃止で二億2千五百万が浮いた。

ついでに、今までのお付き合いで出していた名刺広告、プラグラムパンフレット類の広告、要覧、便覧の広告を全廃した。大臣のお頼みだろうが、代議士のご依頼だろうが、例外は許さなかった。これでも年間五百四十二万円が節約できた。

・・・中でも恐ろしいのはテレビであった。・・わずか60秒のCMに、有名俳優を使ってもいないのだが、製作費だけで2千2百万から二千八百万もかかる。それを異常と思わない感覚の方が異常である。
・・この頃では、テレビにCMを出している会社の製品は、私たち消費者がその費用を負担しているわけだから、買わない方がいい、と思うくらいだ。

 やがて日本財団は、スポンサーとして残していたテレビ東京系のドキュメンタリー「人間劇場」からも撤退した。この番組だけで、年間約八億四千万円かかっていたのである。
八億四千万あれば、老人ホームの建物が一つ建つのだから、財団はそちらにお金をかけるべきだろう。

 財団はものを売る会社ではない。いい仕事をして、それが人々の口から口へと伝えられることが真の広報だ、と私は思っている。