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date :2019年01月

あくまで大切なのは人間の暮らし

靖国で会う、ということ 曽野綾子


 ・・そのうちにあたりは禁猟区になったらしく、狩人の姿は見えなくなった。しかしそれと同時にあたりは鳥獣が我が物顔にふるまう空間になり、農家の人たちも農作物の被害をこうむるようになったと思われる。

動物にとっての安全空間設定、人間の大好きな言葉で言えば動物たちが「安心して暮らせる」土地を作ることで、トンビやカラスは農作物の若い芽を遊びで引き抜き、野兎も狸も芋や果物を心置きなく食べ荒らすようになった。 

 それを知らないではないだろうに、環境省という役所は、動物と自然を守るという名のもとに放置するだけで、経済のかかった人間の営みを守ってやらない。

 ・・明日くらいがちょうど食べ時と思われるさやえんどうなど、その朝、夜明け前に猿に全部食べられてしまう。それで「野菜作りは一切やめました」という。これが一国の環境省の守る政策なのだろうか。

 ・・たかがトンビとカラスと言いたいところだが、野菜でも花でも、明らかに遊びで芽を引き抜く。

・・人間と鳥獣が、同じ空間を共有し、共存するというのは実はかなりむずかしい。
こういう場合常に、獣が人間によって自然から追い立てられて、町や村に移動してきたという言い方がされているが、私は人間と鳥獣が同権の下に暮らしていいらしていいとは初めから思っていない。

あくまで人間の暮らしが主で、同時に動物の種の保護を計る配慮が要る、と順序立てて考えるべきだと思っている。

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魂の高貴さということに関して

靖国で会う、ということ 曽野綾子


生きることは、すなわち誰かに迷惑をかける要素を持つことを、私たちははっきり認識すべきであろう。もちろん同時に、その人は別の部分で社会の役にも立っている。

 別の言い方をすれば、われわれは社会から恩恵も受けるが、被害も受けるようになっている。
恩恵だけを受けて被害は受けない社会など、まず出現することはあり得ないということを、子供たちに早くからたたきこむべきである。そして人間は受けた恩恵は忘れがちで、被害のみを長く強く覚えるものだという心理のからくりをも教えねばならないと私は思うのである。

「人間と言うものは、自分を棚に上げないと何も言えない」・・こうした無神経は日本人の素質が悪いからではなく、すべて学習の不足から来るのである。日本以外の国では、その人に対する尊敬はすべて強烈な個性のあるなしが基礎になっている。

・・つまり魂の高貴さということに関して教師も親も知らないうえ、当人も読書をしないから、損得勘定、自己愛などというもの以外に、人間を動かす情熱の存在やそれに対する畏敬の念というものが、この世にあるのだと考えたこともないのである。

・・本当の人道的支援というのは、生命も財産も差し出せることです、と言うと、そんな損なことをする人がこの世にいるのだろうかという顔をされることも多い。

みなさま、お疲れ様です

ご無沙汰しておりました。今日お店ができてはじめて、ポスティングをして、その勢いで久々に記事を書けました。
チラシはお店オープン前(5年前)から作って置いてはいたのですが、一身上にいろいろな不具合があってするきっかけがつかめず今に至ります。

ポスティングやビラまきというものは結果を考えながらやると虚しくなってやる気がうせるように思う。ほとんどが見られることなく即捨てられるのだから(わたしもそうだから)と思っているので。

とはいえ、私はじっとしているのが苦手なたちで、何もせずに来るか来ないかわからないものを待っている時間が厭で、たとえ無駄であってもやれるだけのことをやって動き回っているほうが、自己満足で気分が前向きになって晴れるように思う。また私は何かをやりだすと、なんのため、というのを忘れてそれ自体が楽しくなってくるようなところがあるんですよね。

たとえば、ほんとにいろんなおもしろい建物があるなぁと。マンション、一戸建て、お店。
いつもは素通りしているものを、あらためてひとつひとつ見ることになるので、まず建物そのものが興味深く面白い。また、いろんなことを想像しだす。そこでさまざまな人が、それぞれいろんな事情をもって一つとない営み、生活をつむいでいるんだなぁと感慨深くなったり・・。

ネット上の広告のよさは効率的なところ。反面間口が狭くなる。もともとこういう業界を知っていて興味がある人が目的をもって探してくるだけになるから・・・そのぶん無作為なチラシだと、効果はうすいかもだけど、こういう業界、こういう世界があるということを、知ってもらえたり興味持ってもらえるよさがあるんじゃないかな、と。

ともかくは、お互いによいご縁となる人に、つながりますように。と願いつつ散歩がてらポストに入れてきました。近所がマンションだらけだったのであっという間に終わってしまった。

実はわたしはセラピストの妹で、発達障害と精神面で病をもっていて、基本的に社会適応障害で対人恐怖でした。今はあいた時間で、こちらの手伝いをしています。姉の助けで堺市に引越ししてからしばらくして、朝昼はA型事業所に所属し、ビジネスホテルの清掃の仕事に、委託でたずさわることになりました。環境が奇跡的に合っているおかげで2年もつづいているんだと思います。個性的な(あるいは面妖な)愛すべき人々がいっぱいいて活気に満ちた楽しい毎日をすごせています。やるべきこと、仕事があるのは給料があってもなくてもありがたいことです。

A型事業所とは、障害者のために配慮された、障害者のための職場です。知的障害、精神障害、身体障害、発達障害、さまざまな障害の人が区分なく一緒に働いていますが、いろんな部署があるので、結果的に適応する部署に配属されていると思います。

また、職場のこと、あるいはそこでの日々で学んだことなど、追々書いていけたらと思います。

では、また。おやすみなさい。

趣味道楽でなければ、人は・・

靖国で会う、ということ 曽野綾子


アフリカでは、日本人がインフラを整備すると言っても、日本人が去った後は、その機能が半年ももたないところがほとんどだ。

後はエレベーターも動かないまま、レントゲンの装置はフィルムがないまま。血液の検査室には試験官が数本しかない。という荒れ果てた光景になるのはごく普通だ。

アフリカの気質と現状には、修理をするという機能がほとんどない。無理もなかったのだろう。

今までずっと、金がない、技術がない、部品がない、組織がない、何より直して使わねばならないという義務感がないままでやってきたのだ。

そうした事情を骨の髄まで知っている閣僚や政治家が、ほんとうにアフリカのためになり、かつ日本人の苦労も報われる仕事を企画するのだろうか、と私個人はほとんど諦めの境地である。

 リーダーの報酬というものは、今よりずっと安くていい。その組織を盛りたてるという情熱は金では計れない。

それはその任を引き受ける人の「趣味道楽」であっていいと私は思っている。だから今の感覚で言えば、年間一億円を超える報酬は必要ないだろう。趣味道楽というが、それは遊びではない。

趣味道楽でなければ、人は本当に命を賭けたいい仕事をしないものなのだ。

靖国で会う、ということ 曽野綾子2



新聞社で今でも差別語を禁じているところがある。これは明らかな言論統制だ。なぜなら作家は「善人」も書くが、同時に「悪人」のことも蚊金がならない。だから悪い言葉も残しておかねばならないのだ。

署名原稿は筆者の責任だから、中で使われている差別語を書きなおせという新聞社の命令に、私は今まで全く従わなかった。自然にそうした原稿は没になり、そのような新聞社とのご縁も切れて今日に至った。

 だから私は善悪どちらの表現も大切にしてきたのだが、「弱者」という言葉そのものは書き手としてはかなり嫌いだから、あまり使った覚えがない。理由ははっきりしている。

人間は、強くもあり、弱くもあるからだ。同じ一人の人の中にたくさんの素質や特徴や性格がまじり合って存在しているのが人間なのだから、人を弱者や強者、善人や悪人として簡単に括るのは、あまりに荒っぽい感覚だと言っていい。

・・簡単に弱者という言葉を使うものではない。今は「弱者」のレッテルを貼られれば、逆に強者として居座ることができる時代にもなっている。

民主主義は、本質的に、最大多数の陰に、必ず私たちの欲望の一部が犠牲になり、数においての少数者が「泣きをみる」ことを承認した制度である。しかし現行の全体主義国家では、一握りの指導者に人民の大多数が牛耳られているケースがほとんどだから、民主主義国家のほうがやはりましだと私は思っている。

裁判員制度については、

靖国で会う、ということ 曽野綾子


・・その問題とは別に、人に侮辱されただけで大騒ぎをする人に、ほんとうの政治も外交もできるわけがない。

・・大体、人に「誤らせる」という発想が私はかなり嫌いだ。どこかの国にもしつこくそういうことを繰り返す国がある。悪い意味で「女性的」なのだろう。・・強制して謝らされた人は、決してほんとうに悪いことをしたとは思わないものなのだ。

ただし国際関係ではそういうことを繰り返して、金やモノをせしめる、という効用性があるし、政治の世界では、政党や個人の駆け引きの材料に使えるのかもしれないが、私たちの普通の社会では、情けない解決の仕方である。

 ・・私の知っている仕事をしている女性たちは、一大臣が何を言おうと、どうでもいいのである。
彼女たちは、毎日が忙しくて柳沢発言などにかまっていられない。

女性が産む機械としか思わない人がいても、彼が自分の夫やコイビトでなければどうでもいいと私も思う。「じゃ男は産ませる機械ね」と一言報いておけばいいわけだ。

裁判員制度については、・・与えられた資料だけで判断を強いられるなら、ただ素人を利用して民主主義のパフォーマンスをしているだけなのだ。・・私の周囲には、裁判員に選ばれることを避けたいためのいろいろな口実を考えているのが沢山いる。もちろん今の段階では笑い話の範囲だ。しかし内心はかなり本気でこうした判断に抵抗しようとしている人たちである。

 自分は実は精神異常だ、と申告したらどうだろう、という中年もいる。「会社には隠していましたが、妄想や幻聴があるので困っています」と申し立てるのだそうである。

・・もし俄か採用の素人の裁判員が、判決に正しい判断を示せるなら、何であんなむずかしい法科を受験し、何度も何度も司法官試験に失敗しても又再度挑戦するのか。

靖国で会う、ということ 曽野綾子




リーダーの基本をゆるがせにしないための、ごく初歩的で最終的な規範は、公私の別をはっきりさせることから始めてもいいような気がする。金銭的に、あるいは自分が使える特権などの範囲を、公私で明確に区別する潔癖感は要る。

会社からの迎えの車に、デパートへいく女房をついでだからと言って同乗させても、現実的には会社に直接的な損害を与えることはない。しかしそうした些細なことから、公私の垣根が崩れ、社内にしめしのつかない空気が生まれるだろう。

・・・しかし同時に、そこが難しいところだが、リーダーは大局を掴んで、微々たる問題に右往左往しない腰の座り方も要る。
 ・・・そこで職員に期待していたことがいくつかはあった。

 一つは、眼の前に起きていることや、現れた人に対して、礼儀正しさを保ちながら、疑いの眼を持つことでああった。

疑うこと自体が無礼だと言う人もいる。しかし私は40歳の時から始める羽目になった途上国援助の仕事を通して、お金を正しく使うためには、事業の本質から末端の広報の在り方まで、徹底して疑うことから信頼にいたるのだということを教えられた。

・・恐らく戦争も、投資も、建設も、調査事業も、人道支援も、防災も、相手を疑う部分が欠如したなら、必ず失敗する。・・リーダーには、多少いい加減な性格、容易に舵の微調節が効く才能がなければならないだろう。

故郷のために歌うのではなく


都会に住む者が、故郷がないことを憐れまれることは、間違いだ、と私は思うようになった。

 いつか一人の歌手が「私は故郷××のために謳います」と言っているのを読んだことがある。・・しかし私がその時爽やかに感じたのは、都会に住む者は、そのようなことを考えなくて済むというすばらしさであった。

 誰か東京のために歌います、などという歌手がいるだろうか。
それは、東京が愛されるに値しない土地だからではない。東京はほとんど退屈することもない、息をのむほどすばらしい土地である。しかし誰も、東京のために歌いはしない。

 それならば、東京出身者は誰のために歌うのか。 
 
私たちはあらゆる人々の心のために歌うのである。それが男であろうと、女であろうと、肌の色が黒かろうと黄色かろうと白かろうと、東京に住んでいようとニューヨークに住んでいようとカルカッタに住んでいようと、すべて生きている人々の心のために歌うのである。そしてまたその芸術は、世界に通用するものでなければならない。故郷の人々だけが、懐かしさと共にそれを評価してくれる、というだけのものであってはならない。

故郷のために歌うのではない、どこのどんな偉大な人々のためにも、どん底でうごめいている人々のためにも、同じように、心から謙虚にその人のために歌うことを光栄に思うのが、ほんとうの「歌手」というものであろう。・・・その時、多分人は小さな故郷のためなどではなく、共通の人間の悲しみと喜びのために歌うのである。

都会の幸福 曽野綾子9

都会はたくさんの人の目があるところである。このことは大きな意味をもつ。それは社会性ということと同義語だからである。

 人間は幼時から刺激によって育つということは明らかである。人間の子供に、理想的な食事や環境を与えても、もし周囲にいる育児の担当者が、誰ひとり抱きもせず、喋りかけるということをしなければ、その子が知的に順調に育つことはまずないだろう、と思われる。

・・また、これも比較の問題だが、都会の人々は速く歩く。速く歩けるということは、能力として若いということだから、速く歩ける人はやはりきれいに見える。

 都会の人はあまり大声を出さない。これは不思議である。・・大声で喋るということはどうもあまり恰好のいいものではない。耳が悪い人は仕方がないが、声はいつも控えめの方がいい。

40代の後半に、約二年間、やっと歩ける程度にまで視力が衰えていた私は、50歳直前に手術を受けて、生まれてこのかた持ったことがないような視力が与えられた。

・・目のいい人には当たり前のことである。しかし私には諸体験であった。いささか自分に都合のいいように言えば、私は世間について充分に裏も表も見通せる年になって、初めて人生の細部を見るという幸運を与えられたのである。

 その時の私にとって、都会の交通機関と、人々の住む家ほど、心を動かすものはなかった。一人の人の顔、一軒の家の見える限りの細部が、私に能弁に語りかけた。

こんなことを言うと背負っていると思われそうだが、私はその時、こうして現世に触れている限り、小説の種がないことなどあるわけがない、と思ったものである。

私にとって、私の出会う人は絶対に多い方がいい。私の見られる人生が多ければ、私は豊かな暮らしをしたことになる。私の尊敬する人の数が多ければ、私は沢山の快楽を味わったわけである。

 都会はその意味でももっとも豪華な土地なのである。人が多いこと。それは、星も、風も、砂も、陽も、水も、ことごとく高貴なまでに輝いているアフリカにあっても、涙のでるほど贅沢な境地なのである。


都会の幸福 曽野綾子8




もう20年以上前に、今住んでいる家を建てたとき、私は二つのことを諦めていた。

一つは、建築というものは、決して完全に自分の思う通りにはいかない、ということ、見た目か機能か、ということになると、その二つは或る程度まで一致するが、或る程度を過ぎると対立するから、私としては見た目を犠牲にするほかはない、ということである。

・・解決の方法としては、諦めることが大切だが、譲っていいたくさんのことと、譲りたくない少数のことを決めておくということが、設計者との関係をスムーズにすることではないか、と思った。

・機能の根本は、暑さ寒さ、音、光などの外界の変化をまともに受けていたものを、人工の力でコントロールすることである。

・・都会的建築の情熱は、まず便利さに向けられる。トイレが二つあることは床の間の贅沢に勝る、と思っている人は多いだろう。・・断熱・防音が都会では厳しく要求される。・・隣のピアノが煩わしいといって、人殺しさえ起こるのが都会なのだが、断熱・防音素材が比較的安くなったおかげで、都会の中に全く人工的な静寂な空間を造ることもおとも、不可能ではなくなった。

 それは雪の日に温かい家の中にいるような幸福を与える。暖かい季節に部屋を開け放っている幸福と、それは少し違う。外が寒いからこそ、幸福の凝縮が、充分に暖房された部屋の中にあることを感じてる点では、北海道の住人の上を行く者はない。外が煩わしいからこそ、中の静寂がこの上なく貴重なのである。

 そしてそこがまた大切なところなのだが、ちょっと出ていきさえすれば、あたりには人と騒音が一杯ということが必要なのだ。好きな時に出て行って人と会って賑やかな音にまみれ、嫌になったら自分一人の静寂に戻る。わがままだが、快いことこの上ない。

歴24年,個人エステサロン

日常の喧騒からはなれた 美的体験で 心の癒しと解放感を。 Lotusでは、いつ帰ってもいいような あたたか味とゆとりのある 居心地のよさを 皆様に提供させて頂くことを 目指しています。 皆さまにとってLotusが、癒されて元気になれるパワースポットのような場所になれれば幸いです。

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