FC2ブログ
071234567891011121314151617181920212223242526272829303109

date :2017年08月

誰にも死ぬという任務がある 曽野綾子

・・だから「仕事ばかりで趣味に時間を割かなかった」ということも私にはなかった。
机にばかり向かっていると、自分の心がどんどん痩せていって、書くこともなくなる、ということが、比較的若いころから本能的にわかったからだった。もっともこれは、論理性も常識もなくて済む作家という職業にして初めて許された生き方であろう。

 私の感覚では、人生は無駄を含んでいてこそ深くおもしろくなるのであった。失敗も迷いも共にいる。病気になることもある。それでいいのだ。とわたしはいつも心でつぶやいていた。

私の周囲には、たくさんの神父や修道女の知り合いがいる。
皆、それぞれの理由で修道院に入り、結婚もせず、したがって子供も持たず、ある場合には一生世界の最も貧しい国の田舎で暮らして、その土地の子供たちに字を教え、小さな診療所でマラリア患者に薬を与え、赤ん坊の生まれるのを助ける、というような暮らしをしている。

・・それでもそうした人たちは、たまに日本での休暇が終わると、いそいそと「地球の僻地」と言いたいような任地に帰って行く。どうして?と聞く人がいるが、それは、一粒のままを保って生きるのではなく、仮に死んでも誰かに何かを残すことで、自分の存在が生き続けることを望むからだ。

スポンサーサイト



 誰にも死ぬという任務がある 曽野綾子

そこで私達はこの「アメイジング・グレース」を謳ったのだ。
すべてが最後の一瞬に見捨てられていないことを実感しているからだった。
その時以来の感動で、イル・ディーヴォの歌は私を打ちのめしたのだ。

「驚くべき神の恵みは、私のような哀れな者も棄てなかった。
かつて私はさまよっていたのだが、実は私は見守られていたのだった。

私は運命に対して盲目だった。
しかし今、私にはすべてが見えている。
神の恵みは、何と優しかったことか」

知っておきたかったこと、会えてよかったことに多く出会えるのはいいことではないか。

「わたしはこう言いたい。定められた時は迫っています。今からは、妻のある人はない人のように、泣く人は泣かない人のように、喜ぶ人は喜ばない人のように、物を買う人は持たない人のように、世の中に関わっている人は、関わりのない人のようにすべきです。この世の有様は過ぎ去るからです」
 これほど短い文章の中に、凝縮して現世を捉えている文章はそれほど多くはない。

 自分の置かれた状況、人間関係、行動、すべてを仮初のものと思えということなのだ。
ことに大切なのは、ものごとに関わっていても、関わりないように生きるべきだ、という忠告である。

家族団欒の幸福に酔っていてもいいのだが、それも長く続くかどうかわからない。今現在直面している不幸からもう立ちあがれないと思っていても、この幸福がずっと続くに違いないと信じている人も、それらはすべて迷妄である。

必ず柔らかな明日は来る 曽野綾子


自分の都合だけでなく、他人を幸せにしたいという思いのない人は、一生大人になれないし、充たされた生活もしていないように思う。よく自分は不運で「芽がでない」とぼやく人は、つまり自分のことだけしか心にない人だから、よくなるわけがないのかもしれない。 

傍目からみても困る点をもつ配偶者を、にこにこと放置しておく夫や妻を私はひそかに尊敬している。
叱ったり、恐縮してみたところでどうにもなりはしないのだから、お守は自分一人ではとうていしきれませんから、世間さまも受け持ってください、という感じのほうが、自然でいいのである。 (永遠の前の一瞬)

壊れた夫婦にならぬために
 結婚というのは、意外に成功の確率の悪いもので、その率は50パーセントにも満たないと思う。
かつて自分の両親がどちらも悪人でないどころか小善人であったのに、性格が合わないことがどんな生活をもたらしたか、子供の時から怯えながら見ていた私は、今になって、父母が決して例外ではなく、むしろ、あちこちにいる世の中の夫婦たちのひと組だったのだな、としみじみ思う。
・・おもしろいことに、男は大抵の場合「結婚とはこんなものだろう」と思い、女は「結婚とはこんなはずじゃなかった」と考えるのだ。


 

必ずやわらかな明日は来る 曽野綾子

老人や病人の長い看護は、ほどんど世間から感謝や褒められることがないまま、もしかすると何十年も続くのである。それはただ、神だけが眼にとめ、神だけが喜ばれるものである。

・・しかしここで神がどこにいるか、という位置ははっきり示されている。神は、いま私たちが相対している人、面と向かっている人の中にいるのだ。神は決して、現世で偉大な人の中にいるのではない。むしろもっともみじめな姿をした人の中にいる、と聖書は警告する。
 この思い以上に、置いた人を見守る行為が報われると実感することはむずかしいだろう。・・老人はしばしば嘘がうまくなり、憐みを乞うテクニックも覚え、自分勝手になる。しかし私達は置いた人に仕えるのではなく、その中にいる神に仕える、と思うことができれば、介護の意味はかなり変わってくるかもしれない。

僕は、信仰は持っていませんけどね。人間が、自分の思う通りには決してならないということだけは、確実だな。人間は努力することで、自分の願いの方向を示す。しかし、最後に決裁を下すのは、人間の力ではないものだと思う。



 

必ず柔らかな明日は来る

私達は自分が弱い時に初めて、どう生きたらいいかということが見えてくるのです。
普通なら、自分がどんなに強くて耐えられる人間か、自分は耐えるということにおいて人並み以上であり、いかに人とは違っているかということを誇ります。
しかし、そうではなく、人間は弱くなっているとき、病気になっている時、気がめいって落ち込んでいるような時に初めて、その次の段階が見えます。

でもこれが、私に与えられて生き方なのだろうと思います。
人生は決して二つと同じものはないのだ。といつかあなたはおっしゃいました。
だから、それがいいものでも悪いものでも、受けるほかはない。ただしどんな悪いと見えるものでも、それは神があなたを信じて、あなたがそれを使いこなすものと信じてあなたに特別に贈られたものだと、あなたはおっしゃった。
納得はむずかしいことですが・・そう思うほかはありませんね。(この悲しみの世に)

・・しかし最近では何でもセクハラだということになりかけた。
「君、バストいくらあるの?」と聞くことさえセクハラだという。(いい加減にしろ)である。そんなことにいちいち困るようなやわな神経で、どうして男女同権で仕事ができるだろう。バストの寸法をきかれたらろくすっぽ考えもせず「一メートルです」と答えておけばいいではないか。 




晩年の美学を求めて 曽野綾子

私は生涯かなりの不自由を受けるのさえ、当然と思って暮らしてきた。今日は寝てたいと思っても、約束は優先する。
夫はプロの作家になるなら、社会との契約を優先するように、と言った。家族が病気でも、締め切りが優先する。それがつらいなら、プロになどならず、楽しみで小説を書けばいい、というのが夫の考えであった。

親孝行な子供とその親がどうして出来るかというと、一つの鍵があるような気がする。

親孝行な子供は、幼いころからどこかで耐えることをしつけられて来た家庭に生まれている。
もちろん、耐えることの全くない子供などないだろう。しかし物わかりのいい、甘いしつけの家庭には、なかなか親孝行な子供は生まれない。
 親との生活の中で、親と苦労を分かち合う体験を持った子供だけが、親を大切にする。しかし親が子供に艱難辛苦を強いず、子供にだけは苦労をさせたくない、と思う場合には、子供がなぜか大人に育たないのである。


晩年の美学を求めて 曽野綾子

私から見れば、教育はすべて初めは強制から始まるのである。
「おはようございます」ということも、「これは犬です」ということも、「万引きはいけません」ということもすべて初めは強制である。

ほしい玩具にはすぐ手を伸ばすのが幼児の自然だが、お店にあるものを代金を払わずに取ってはいけない、と教えることは強制以外にない。しかしやがてそのうちに、誰でも人は判断力を持ち、その上さらに自分の選択眼を持つようになる。

 ボランティア活動をちょっと皆にやらせてみれば、もっと多くの人がその楽しさを知る。同時にいやな人はすぐにその道から遠ざかればいいのだ。ボランティア活動は、人のために尽くすことが自分の幸福感に繋がるという実感を持つ人がいるから続くのである。

・・強制された犠牲的死は良くないが、その人が自発的に選んだ犠牲的死は、限りなく美しいものだ、という判断である。

「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」・・しかしそれは、動物には見ることができず、人間にしかできない最高の精神的な行為だということを、見失わずに済んだのである。

晩年の美学を求めて 曽野綾子


どの話に対しても、その感動は深く後まで残った。すべての成り行きに存在の意味が感じられた。多くの場合、その運命を受けた人に尊敬も感じていた。尊敬の形は時にはねじまがっていることもあったが、その時はもっと重厚な厚みを持って感じられた。

 ・・私は、悲しい恋の結末の話も、ついにこの世で会えなかった死別の話も、いくつも耳にした。いずれも当事者が誠実な人々だったからだ。誠実な人でなければ、人生のドラマは色濃くならない。

それらがなぜ私の耳に入ってきて、終生忘れられない宝物になったか、私はその因果関係もよくわからない。私はただ偶然そうした財産の所有者になり、ずっとその所有物を誇りにして来たのである。

何を誇るかはその人の自由だが、多くの人生に立ち会わせてもらったことを今でも私は財産だと感じている。

どうして人間は、人並な知能と体力に恵まれて生きてきたのに、早々と他人に頼る生き方に見切りをつける賢さが完成しないのだろう。ましてや高齢者は、長い人生を生きて何より経験が豊富なのだから、他人が自分の思う通りにやってくれない、というような単純なことくらい、早々と悟ってもいいと思うのである。


晩年の美学を求めて


田辺聖子 上機嫌の才能

時間なんて、どないでも出てくるんです。できないと言い訳するのは、自分がそれをしたくないからではないかしら。

電話というのは、切れるところがいい。何とも便利だ。
そして切るのも、早い者勝ち、といういいところがある。だから私は、早い者勝ちで切ってやった。

合うか合わへんか
その味が自分に合うか合わへんか、だけやから。人間もそうでしょう。どんなに立派な人間でも、合わへんやつはキライになるし、合う人は一目で合う。

そのうち電話する、というのはなんという便利な言葉であろうか。
現代ではそいつが「さよなら」の代用になっている。

もう二度と会わない、というときでも使えるし、またぜひ会いたい、というときも。
それからもう愛していない時にも、あるいは決して別れたくない、この関係を切らせたくない、けれどもそれをあからさまに言えないで、という切ない時にも。(窓をあけますか?より)

ハイミスというもの、心弱くてはかなわぬものである。じつに生き難い。
あんまりお人よしだと若い子になめられるし、キッとしていると欲求不満だ、ヒステリーだとうるさい。愛想良くすると色キチガイといわれ、男嫌いを押し出すと、もてないから、と同情される。(窓をあけますか? より

心変りは責められない
人間の心というものは変わるものである。先のことはわからないものである。心がわり、ということは責められないことなのかもしれない。 約束というのも、しない方がいいのかもしれない。


 

田辺聖子 上機嫌の才能

一人前の社会人
男社会には古来「武士の情け」「武士のたしなみ」という文化がある。
女の子が男並みに仕事ができるのは歓迎すべき時代の進展であるが、デキルだけではなくて、「武士の情け」という、男性文化の遺産も現代的教養としてリニューアルし、身につけなくては一人前の社会人と言えない。

ツトメ人とショウバイ人

大阪では、ツトメ人とショウバイ人とは別の人種、ということになっている。
これは職業上の区別ではなく、性格上の分類なのである。

・・・・つまり性格上のツトメ人というのは、ゆうずうがきがず四角四面で、理屈の多い、几帳面すぎる人、

商売人といわれる性格は、円転滑脱で、伸縮がきき、話がわかり、茶目っ気があり、そのくせ、いつのまにか言い分を通すというような、老巧なかけひきの人間関係を得意とする、そんな感じのものである。


 愛してよろしいですか? より
本当に面白いのは、その人のハートから出たことば。本当の文化はそういうもんだよ。ひとことで相手の心を打つようなもの。下らん学説をたくさんつめこんで並べ立てるより、自分だけの意見をもって、それを、バチッとしゃべったらええねん。

たよりにしてる、というのは私のコトバのヒキダシでは、「愛」に分類されてる。
(オバハンたよりにしてまっせ…)というのは、私のヒキダシでは(愛してます)の中にファイルされるのである。

 

歴24年,個人エステサロン

日常の喧騒からはなれた 美的体験で 心の癒しと解放感を。 Lotusでは、いつ帰ってもいいような あたたか味とゆとりのある 居心地のよさを 皆様に提供させて頂くことを 目指しています。 皆さまにとってLotusが、癒されて元気になれるパワースポットのような場所になれれば幸いです。

カテゴリ

リンク

訪問者数

検索フォーム

大阪 宿泊

旅行

QRコード

QR

Lotusは7周年を迎えました!

老舗店をめざして精進してゆきますので、今後もご贔屓どうぞよろしくお願い申し上げます(^^)ご新規、一見さんも歓迎です☆

プロフィール

Lotustaff

Author:Lotustaff
専任セラピストnami,HP担当kaoriです。当店ブログをご覧頂きありがとうございます。いろんな方にお会いできるのを楽しみに日々お仕事してます♪お店にも来てね~!

最新記事

カレンダー

07 | 2017/08 | 09
- - 1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31 - -

月別アーカイブ